@article{oai:s-bunkyo.repo.nii.ac.jp:00000102, author = {本庄, あかね and Honjo, Akane}, issue = {24}, journal = {紀要, BULLETIN OF SHIGA BUNKYO JUNIOR COLLEGE}, month = {Mar}, note = {application/pdf, 芥川龍之介の作品には、典拠を持つものが多くある。先行する作品を書き直し新たな作品を生み出すという芥川の創作手法は、「三右衛門の罪」(大正十三年)にも認められ、志賀直哉「范の犯罪」(大正二年)を下敷きとすることが既に指摘されている。しかし、「三右衛門の罪」は、単行本未収録作という事情もあり、これまでの研究において取り上げられることが少なく「范の犯罪」との比較考察も十分には行われていない。前稿では、先ず、「范の犯罪」の解釈を試み、規範的存在であり、個の意志と行為を持とうとする范の意識の内部に、近代的主体の概念が認められることを論じた。このような前稿に続き、本稿は、両作を比較する視座から、芥川「三右衛門の罪」の作品解釈を行った。芥川「三右衛門の罪」における三右衛門の自我がどのように形成されているかを読み解き、幕藩体制のもとにある三右衛門が、主君前田治修との関係形成の結果としての自我と、武士道に基づき形成されている自分の内に向いている自我との不統一なあり方を、一つの中心にまとめ上げていくことをしない人物として造型されていることについて論じた。このような三右衛門の分裂的とも見える自我のありようには、「范の犯罪」における范に典型として見られたような近代的自我の姿はもはや認められない。このような両作の相違点を考察し、本作を、近代的自我と合わせ鏡であるところの近代的主体に対する懐疑が表されていると作と意味づけた。}, pages = {9--17}, title = {芥川龍之介「三右衛門の罪」における近代的主体の揺らぎ(下)―志賀直哉「范の犯罪」との比較を通して―}, year = {2022}, yomi = {ホソジョウ, アカネ} }